2011年09月13日
その食物は、安心、なだけ?
愛国心
S30
国を愛するという気持ちは、愛国という言葉が生まれてから、
ずいぶんと変遷しているのではないだろうか。
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先日、「遺伝子組換え作物」に関するシンポジウムを聴講した。
「食物とは、生きていくためだけに食べるものなのか?
安全とか、健康とか、ただそれだけの問題ではない。
食は文化であり、その是非には様々な要素が絡んでくる」
という、一消費者の意見を聞いて、全部賛同というわけでもないが、うーんもっとも、と思った。
様々な、という点が核心をついている。
組換えに限らず、科学技術の是非を問う議論になると、
文化だけでなく、あいまいさや言語化されない「もの」すべてがないがしろになる。
それは、科学的な議論の前提には存在しえないものだからだ。
また、単に議論の当事者が専門外である場合もあるだろう。
社会は科学の専門家だけで成り立っているわけではないのであるから、
議論のときは、つい忘れがちになる前提外の文化や慣習に敬意を払うことが大切だ。
欧州では、政治的に組換え作物が規制されていると聞いた。
その背景には、体制維持への願望(=変化への抵抗)があるのではないだろうか。
一方で日本は、消費者不安に対応して、組換え生物の規制そのものが厳しいようだ。
WWII戦後の日本は、科学技術への信奉を背景に経済発展してきた。
伝統や慣習を犠牲にしてきた対価として、世界的にも稀な経済復興を果たしたと言える。
その一方で、科学技術の負の側面も嫌と言うほど見せ付けられてきた。
そんな時代に生まれ出た遺伝子組換え技術に対して、消費者不安は大きいようだ。
ここへきて文化的なものや慣習への回帰(あるいは、郷愁)が、悪い方向で生じている気がする。
文化的・慣習的なものだけが大切かといえば、実はそうも言い切れない。
組換え作物の是非の判断基準には、例えば、食糧安全保障問題も加わるだろう。
あいまいな言い方を許してもらえるならば、文化、科学技術、政策、の三点が絡んでおり、
そういう意味で、安全だけの問題ではない、様々な要素が、という言い方に核心を感じる。
今回のシンポジウムには、その視点からの議論がないことが、すこし不思議だった。
今後もこの問題については、勉強していきたい。
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育児日誌:
息子はTV大好きである。
今朝、TVリモコンを手に取ると、息子がTVのほうを向くようになった。
スイッチをつけずにいると、不審そうな顔をしてこちらを見る。
リモコンでスイッチを入れていることに気がついたようだ。
記憶だけでなく、行動の予測ができるようになったきた。
あるいは関連付けだろうか?